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高野山
今年ののスルッとKANSAI3daysチケットを使ったGWの旅は世界遺産 高野山へ。
(去年は比叡山・一昨年は鞍馬へ行きました)
近鉄電車で難波へ。難波から南海電鉄高野線で橋本へ。橋本から『こうや花鉄道 天空』に乗り換えて極楽橋まで向かいます。天空は急勾配と急カーブが連続する軌道をゆっくりと登って行きます。






極楽橋からはケーブルカーに乗り換えて5分ほどで高野山駅に着きます。



高野山駅から南海りんかんバスに乗り、大門まで。大門は聖地高野山の表玄関にあたります。大門が今の位置に置かれたのは平安後期で、現在の大門は江戸時代の再建で重要文化財に指定されています。


高さ25.1mの門の両脇の金剛力士、阿形像(あぎょうぞう)は、江戸時代の仏師、康意(こうい)、吽形像(うんぎょうぞう)は、法橋運長(ほうきょううんちょう)による大作です。


大門から奥の院まで歩きます。
◇蓮池


◇根本大塔

◇大会堂

◇西行桜と東塔

◇金剛峰寺



◇一の橋あたり



◇奥の院


奥の院前からバスで女人堂まで。女人堂から千手院橋まで歩きます。
◇女人堂


◇徳川家霊台

家康霊屋

秀忠霊屋




千手院橋から高野山駅までバスに乗り、往路と同じくケーブルカー・南海電車と乗り継いで難波に帰りました。
ちょうど、うめきたグランフロント大阪がOPENの日ということで梅田に回り大混雑のNewSpotを見学(^^)v

(去年は比叡山・一昨年は鞍馬へ行きました)
高野山は、平安時代のはじめ、日本が生んだ偉大な聖人、弘法大師によって開かれた日本仏教の一大聖地です。
弘法大師・空海は、国家の安泰、世界の平和、また、修行者のために、人里離れた山奥に、真言密教の根本道場を建立する願いを持っておられました。
その願いが叶い、西暦816年(弘仁7年)に当時の帝・嵯峨天皇より、真言密教の根本道場を開くためにこの地を賜りました。
海抜1千㍍の山上に広がるこのお山は、東西約6㌔南北約3㌔の盆地で周囲を内八葉外八葉の峰々に囲まれ、蓮(はす)の華のような地形をなしております。
10世紀後期頃から大師入定信仰が生れ、高野山を弥勒浄土(みろくじょうど)とする信仰や阿弥陀浄土(あみだじょうど)とする信仰と合いまって、高野山は、一般民衆の信仰と尊敬を集め、千年以上も前から、現在に至るまで多くの人々のお参りが絶えません。
西暦2004年(平成16年)7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録され、日本国内はもとより世界各国の方々も数多く訪れております。またミシュラン旅ガイド日本版において、高野山は三つ星を獲得し、優れた観光地として最高の評価を受けています。
近鉄電車で難波へ。難波から南海電鉄高野線で橋本へ。橋本から『こうや花鉄道 天空』に乗り換えて極楽橋まで向かいます。天空は急勾配と急カーブが連続する軌道をゆっくりと登って行きます。






極楽橋からはケーブルカーに乗り換えて5分ほどで高野山駅に着きます。



高野山駅から南海りんかんバスに乗り、大門まで。大門は聖地高野山の表玄関にあたります。大門が今の位置に置かれたのは平安後期で、現在の大門は江戸時代の再建で重要文化財に指定されています。


高さ25.1mの門の両脇の金剛力士、阿形像(あぎょうぞう)は、江戸時代の仏師、康意(こうい)、吽形像(うんぎょうぞう)は、法橋運長(ほうきょううんちょう)による大作です。


大門から奥の院まで歩きます。
◇蓮池
18世紀後期には旱魃が、たびたび起こり瑞相院慈光師(ずいそういんじこう)が善女竜王像と仏舎利を寄進し、西暦1771年(明和8年)春に蓮池の中島に小さな祠を建立してお祀りしました。西暦1996年(平成8年)に祠とともに橋も修復されています。池の周りには四季折々の花木が植えられ、景勝地としても有名です。


◇根本大塔
この塔は、弘法大師、真然大德の二代で816年から70年の歳月をかけて完成したと伝えられています。弘法大師は、この大塔を真言密教の根本道場のシンボルとして建立されたので根本大塔(こんぽんだいとう)と言い、多宝塔としては、日本で最初のものでございます。本尊は、胎蔵大日如来(たいぞうだいにちにょらい)が安置され、周りを金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩が描かれ、四隅の壁には密教を伝えた八祖像も描かれ立体曼荼羅(まんだら)を構成しています。この絵と外壁は、平成の大修理の一環として修復・塗り替えが行なわれ、北側に安置されている二体の仏は多聞天と持国天で、江戸時代の作とされ、もとは中門に安置されていたものです。高さ約48.5m、幅約23.5m四面で、現在の建物は、西暦1937年(昭和12年)に再建されたものです。

◇大会堂

◇西行桜と東塔

◇金剛峰寺
金剛峯寺は、元は真然大徳のお住まいがあったところで西暦1131年(天承元年)10月17日に覺鑁上人(かくばんしょうにん)が鳥羽上皇の許を得て大伝法院(だいでんぽういん)を建立され、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立させた寺院で、その名を青厳寺と呼び応其上人の住いとなりました。その後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は西暦1863年(文久3年)に再建されました。西暦1869年(明治2年)3月に青厳寺と興山寺の2ヶ寺が統合され、さらに全国の真言宗寺院を総括する管長職が置かれました。現在は、奥の院祖廟を信仰の中心として結成された、高野山真言宗三千余寺、信徒約1千万人の総本山として、高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主の住いとなっています。



◇一の橋あたり



◇奥の院
表参道入り口、一の橋から弘法大師御廟まで通じる約2㌔の参道両側には、何百年も経た老杉が高くそびえ、その老杉のもとには、少しでもお大師様の近くで供養されたいと願う数十万基を超える各時代の、あらゆる人々の供養塔が建ち並び、高野山が日本一の霊場である事をあらわしています。


奥の院前からバスで女人堂まで。女人堂から千手院橋まで歩きます。
◇女人堂
昔、高野山への入口は、高野七口(こうやななくち)と言われるように七つの入口が有りました。その七つの入口には、西暦1872年(明治5年)女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性の為に参籠所が設けられていました。現在は、この七口の一つ、不動坂口にあるこの女人堂だけが残っています。また、このお堂の近くには、高野山を代表する高野六木を中心とした、見事な自然林が保護されていて、高野山の自然の移り変わりを観察する事ができます。


◇徳川家霊台
西暦1643年(寛永20年)三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物です。建物の内部は漆、金箔、壁画等で装飾され一重宝形造りの同じ建物が左右に並び、右が東照宮家康霊屋。左が秀忠霊屋で、何れも高野聖(こうやひじり)たちによって建てられたと記録されています。

家康霊屋

秀忠霊屋




千手院橋から高野山駅までバスに乗り、往路と同じくケーブルカー・南海電車と乗り継いで難波に帰りました。
ちょうど、うめきたグランフロント大阪がOPENの日ということで梅田に回り大混雑のNewSpotを見学(^^)v

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無題
無題
6月には高野山で一泊しようと思っていますので又色々お話聞かせて下さいね。