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カテゴリー「旅」の記事一覧

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旧大社駅

明治45年6月開業(出雲市~大社間)して以来、平成2年の廃駅まで出雲大社の表玄関口として親しまれてきた駅舎は、大正13年に改築。全国でも珍しい神社様式を取り入れた格調ある純日本風の木造建築で、平成16年には国の重要文化財に指定されました。


高く設計された天井からは大正風の灯篭型の和風シャンデリアが玄関を含めて30個備え付けてあります。待合室は正面向かって右手が二等待合室、中央の大きな一般待合室と二つあり、昭和初期までは分けて使用されていました。


廃止当日の列車の旅客運賃表


ローカル線だったとは思えないくらい長いホームがあります。その昔は長い編成の列車も発着していたことが想像されます。


出雲大社から歩いて15分ほどの距離に作られた大社駅。当時は出雲大社への玄関口として賑わっていたことでしょう。
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出雲大社参拝

 縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。

 主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています。

 主祭神の大国主大神は素戔嗚尊の子孫、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。
 神話の中の「因幡の白うさぎ」の話が有名で、『サメを騙したため全身の皮をむかれた白うさぎが大国主大神の兄たちに助けを求めたところ、海水につかり風にあたるとよいと言われた。うさぎが言われた通りにしたところ、塩水がしみてよけいにひどくなった。兄たちに荷物を持たされ遅れてやってきた大国主大神が痛みで泣いているうさぎを可哀想に思い、真水で塩を洗い、がまの穂にくるまると良いと教えたところ、うさぎの傷は治りました』というお話で、大国主大神の優しい性格がうかがえる一幕です。
 そしてこの神様は多くの女神と結婚し、多くの子供をもうけます。縁結びの神様というのもうなずけます。
 大国主大神は出雲王朝を繁栄させるという偉業を成した王ですが、大きな袋を肩にかけ、ずきんを被り、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つ、あの人懐こいお姿の大国(だいこく)様もまた、大国主大神なのです。

 現在の拝殿(はいでん)は、昭和34年5月に竣功しました。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われます。


 御本殿(ごほんでん)は、大国主大神さまがお鎮まりになっておられ、大国主大神さまの御事蹟に対して建てられた宮です。高さ約24メ-トルの偉容は、御神徳(ごしんとく)にふさわしく比類のない大規模な木造建築の本殿です。「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の御本殿は、現在国宝に指定されています。御本殿をつつむかのようにそびえる八雲山(やくもやま)を背景にした姿は、たくましい生命力を感じさせ、見るものに感動を与えます。
拝殿の後ろの八足門(やつあしもん)から本殿を参拝します。


 本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向いておられ、本殿の正面八足門から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になります。八足門から左手に回ったところで御神座正面から参拝できます。なお、出雲大社での正式な参拝作法は「2礼、4拍手、1礼」です。




 国宝である現在の御本殿は1744年に造営され、これまで3度の遷宮が行われてきましたが、現在、60年ぶりとなる「平成の大遷宮」が行われています。そもそも遷宮とは、御神体や御神座を本来あったところから移し、社殿を修造し、再び御神体にお還りいただくことですが、その意味には諸説あり、
 (1)木造建築の建物を維持していくため
 (2)社殿の建築など様々な技術を継承していくため
 (3)神社は清浄であることが必要で、そのために遷宮を行う(神の力がリフレッシュされる)などと言われています。
 平成20年4月に、御祭神である大国主大神が御本殿から御仮殿に御遷座される「仮殿遷座祭」が執り行われました。そして翌21年から、御本殿のみならず摂社・末社も、修造工事が進められてきました。御本殿の修造は、大屋根檜皮(ひわだ)の撤去、野地板の修理などを経て、新しい檜皮による葺き作業も平成24年3月に完了し、同年夏には、修造期間中御本殿を覆っていた大きな素屋根が取り除かれ、新しく生まれ変わった御本殿がその姿を現わしました。
 平成25年5月10日には、大国主大神が修造の終わった御本殿にお還りになる「本殿遷座祭」が執り行われ、その後も様々な奉祝行事・記念行事が催行されました。
 摂社・末社の改修は引き続き平成28年まで続けられます。

石見銀山

 石見銀山遺跡は、環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価され、2007 年7 月に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、国内では14 件目、鉱山遺跡としてはアジアで初めての世界遺産に登録されました。

 石見銀山は、1526 年、博多の豪商神屋寿禎に発見されて以来、約400 年にわたって採掘された日本を代表する鉱山遺跡です。大航海時代の16 世紀、日本の銀鉱山としてヨーロッパ人に唯一知られた存在で、当時ヨーロッパで作られたアジアや日本の地図に、石見銀山付近を指して「銀鉱山王国」「銀鉱山」と記されていることからも明らかです。
 また、石見銀山で生産された銀は高品質で、東アジア交易において最も信用が高く、石見銀山の所在する佐摩村(さまむら)にちなんでソーマ銀と呼ばれ流通しました。
16 世紀半ばから17 世紀前半の全盛期には、石見銀山で産出された銀をはじめとする日本銀が、世界の産銀量の約3分の1 を占めたといわれています。




◇清水谷製錬所跡
山すその傾斜を利用して造られた明治時代の先端技術による精錬所の遺跡。
明治28年から巨額を投じて建造されましたが、わずか1年半で操業中止となりました。


◇龍源寺間歩
龍源寺間歩は、御直山(おじきやま)五ヶ山のひとつ、江戸時代の中頃に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く、約600mあります。そのうち一般に公開されているのは273m(新坑道含む)で、坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残っています。 また、排水のため垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができ、石見銀山絵巻等の展示もあります。


◇大森の町並み
江戸時代天領だった石見銀山領の中心地。数々の古社・古寺,大森代官所跡などが残されている。伝統的な町並みが見られるのは代官所前から南へ進む通りの両側の家並みで,保存整備事業によって昔ながらの家々が復元され,国の重要伝統的建造物群の指定をうけている。

訪れた日は月一度の世界遺産センターが休館の日で、大森の街並みの施設も扉を閉ざしたところが多くて残念でした。

恵美須ヶ鼻造船所跡・萩反射炉

世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」には萩市の5資産(松下村塾・萩城下町・大板山たたら製鉄遺跡・恵美須ヶ鼻造船所跡・萩反射炉)が含まれています。

◇恵美須ヶ鼻造船所跡(発掘調査中)
 萩藩が設けた造船所の遺跡で、幕末に2隻の西洋式木造帆船を建造しました。
 徳川幕府は、大名統制のため江戸時代初期に軍艦等の建造を禁止する大船建造禁止令を制定しました。しかし、ペリーの黒船が来航した嘉永6年(1853)、幕府は禁止令を解禁し、翌年には萩藩に軍艦を建造するよう命じます。また、安政2年(1855)に、桂小五郎(木戸孝允)が軍艦建造の意見を藩に提出します。これらを受け、翌年には当時の藩主毛利敬親が洋式軍艦を建造することを決定します。
 当時、国内では伊豆半島の戸田村で、ロシア人海軍将校のプチャーチンが地元の船大工を使って西洋式木造帆船を建造していました。これが日本人による初の本格的な洋式船建造で、萩藩は戸田村に船大工棟梁を派遣し、建造に携わった技術者を招へい、安政3年(1856)恵美須ヶ鼻に造船所を建設します。ここで同年、「丙辰丸」が進水します。
 また、万延元年(1860)には2隻目の西洋式帆船「庚申丸」が進水します。庚申丸の建造技術は、丙辰丸とは違い、幕府が軍艦の操縦と建造の技術習得のため設立した長崎海軍伝習所でオランダ人教官が教えた技術が用いられました。
 このようにロシアとオランダという2つの異なる技術による造船を1つの造船所で行った例は他にないこと、また幕末に建設された造船所で唯一遺構が確認できる造船所であることが評価され構成資産となっています。今年10月には国指定史跡に指定されました。



◇萩反射炉
 西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が安政3年(1856)に建設した反射炉の遺跡です。
 鎖国状態にあった江戸時代にあって、大陸に近い西南雄藩は、アヘン戦争での清国(中国)の敗戦やペリーの黒船来航により危機感をもち、海防の強化に取り組みます。各藩は、わずかな蘭書の知識などを頼りに自力で、射程距離の長い鉄製大砲や大型の軍艦を建造しようと試行錯誤します。当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉を用いていました。
 当時の蘭書の設計図どおりの反射炉としては「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の資産にもなっている韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)が唯一残っていますが、萩反射炉は試験炉としての性質をもった、当時の試行錯誤による産業化を示す貴重な資産です。


◇コバルトブルーの美しい海

角島の夕景

角島(つのしま)は山口県の北西、日本海にぽっかりと浮かぶツツミの形をした人口900人あまりの島です。日本海とは思えない白い砂浜とエメラルドグリーンの海。南国の海と錯覚してしまいそうな光景が広がります。2000年の角島大橋完成にともない、一気に山口県を代表する人気観光スポットになりました。角島を含めた山口県北部の海岸線は、北長門海岸国定公園として指定されています。

一面の鱗雲が朱色に染まった夕焼けに感動しました!
今回は夕陽が目的だったので、橋を渡るのを断念。今度はエメラルドグリーンの海が観られる時間に訪れ、橋を渡って角島を巡ってみたいものです。

萩城下町・松下村塾

2015年夏に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された萩へ行ってきました。




◇高杉晋作の生家
 菊屋横町に建つ、“奇兵隊”を結成した長州藩士・高杉晋作が生まれ育った家。
晋作は、1839(天保10)年、萩藩大組士・高杉小忠太の長男としてこの地に生まれた。藩校明倫館に通う一方、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、久坂玄瑞と並び“松下村塾の双璧”と称される。日本発の身分を問わない軍事組織“奇兵隊”を結成し、功山寺の挙兵を決行、第二次長州征伐で幕府軍を撃破。明治維新のため力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、1867(慶応3)年、享年29歳の若さで病死。
維新の扉を開けた革命児は、風のように幕末を駆け抜けていった。





◇松下村塾 幕末期に吉田松陰が主宰した私塾で、建物は実家杉家の小屋を修理・増築したもの。
8畳の講義室、10畳半のひかえの間、1坪の土間の部分から成る、木造瓦葺き平屋建ての小舎である。講義室だった8畳の部屋には松陰の像や肖像画、机が置いてある。
天保13年(1842)、松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いていたのが始まりで、後に久保五郎左衛門が継承し教育にあたった。安政4年(1857)、28歳の松陰が引き継ぎ、塾を主宰することになった。
ここで松陰が指導したのは僅か2年半の間だったが、塾では身分や階級の区別無く学ぶことができ、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など明治新政府に活躍し、明治維新の原動力となった多くの逸材が輩出された。国の史跡に指定されている。

◇初代内閣総理大臣 伊藤博文の旧宅
伊藤博文は天保12年(1841)、熊毛郡束荷村(現山口県光市)に生まれた。9歳のときに萩に移住し、17歳で松下村塾に学び、討幕運動に参加。明治維新後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任した。旧宅は木造茅葺き平屋建て、29坪の小さな家で、旧宅横には伊藤博文の像が立つ。萩藩の中間水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅であったが、安政元年(1854)に博文の父・林十蔵が一家をあげて伊藤家に入家し、ここに居住することになった。明治元年、兵庫県知事に赴任するまで本拠となった家でもある。国の史跡に指定されている。

韓国ソウル-4日目

あっという間のツアー最終日です。

ホテルは5:30出発!(朝ですよ)
金浦空港への途中、早朝だというのにこれでもかと韓国食料品店に立ち寄り最後のお買い物です。
はちきれんばかりのスーツケースと一緒に無事関空に到着しました(午前中)。


初めての韓国でしたが、ソウルはきれいで活気がある街でした。
同行のみなさん、おつかれさまでした!

韓国ソウル-3日目

3日目の朝食もホテルではいただけません。
バスに乗って、「韓国式朝定食」です。


今日の午前中は江華島観光です。
ソウルからバスで1時間半くらい走って、まずは世界遺産の「江華の支石墓群」

支石墓は韓国語でコインドルと言い、紀元前2500年から紀元前1500年頃に造られた支配階級の墓であると同時に儀式用の祭壇とされています。韓国の中でも支石墓が密集している仁川(インチョン)市江華(カンファ)郡、全羅北道(チョルラプッド)高敞(コチャン)郡、そして全羅南道(チョルラナムド)和順(ファスン)郡の3箇所の支石墓遺跡群は2000年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。


次に、韓国で一番古いお寺だという「伝灯寺」へ。駐車場を降りてから結構急な坂道や石段を登っていきます。
新緑が美しい静かなお寺でした。








ソウルに戻り、昼食です。
「石焼ビビンパ」


午後は再びソウル市内の世界遺産観光です。
「昌徳宮」
14世紀後半から20世紀まで続いた朝鮮王朝を現在に伝える古宮のひとつで、保存状態に優れ美しい自然と建築との調和で人々を魅了しています。





今回の旅最後の世界遺産「朝鮮王陵(宣陵)」
朝鮮王朝の歴代王たちが眠る墓のひとつです。観光客でも容易に足を延ばすことができるのが、江南(カンナム)エリアの中心部にある宣陵(ソルルン)・靖陵(チョンヌン)です。



韓国の国鳥、カササギ(鵲)。


この後、「カジノ」体験をして、免税店・宝石店とお買い物ツアーです。
ソウルでは日本車がほとんど走っていません。関税が高いそうです。
珍しく NISSAN Cube を見かけました。


ソウルは高層ビルが林立し美しい街並みです。斜面に昔ながらの民家が並んでいます。


最後の晩餐。
「サムギョプサル(豚三段バラ焼肉)」


今日の予定は終了。
今夜もまた希望者だけで「ナンタ」を観に行きます。
セリフの無いパフォーマンス劇で国籍関係なく老若男女だれでも楽しむことができます。




今日はお天気が良くなり暑いくらいの一日でした。
ハードスケジュールをこなして今夜もよく休めそうです。

韓国ソウル-2日目

朝食はホテルを出て「あわびのお粥定食」
緑色なのはアワビの胆なんでしょうね。定番のナムルが付きます。


腹ごしらえをして、世界遺産に登録されている「水原の華城」へ。
5.7Kmの城壁を有する、韓国の万里の長城です。少し雨が降ってきました。




世界遺産観光後、ソウルに戻って昼食です。
「選べるチゲ」(キムチチゲ又は味噌チゲ)というメニュー。
安いツアーなので食事がよくありません。チヂミを追加注文しました。これは美味しかった(^^)v



午後は再び世界遺産の観光です。
まずは、「宗廟」
朝鮮王朝歴代の王と王妃の神位(位牌)が安置されている、王室の霊廟です。


数グループが集まったところで案内係の方の説明を聞きながら歩いて回ります。
石畳の中央が一段高くなっています。神様が通る道だそうです。歩かないようにと注意されます。


続いて、「南山韓屋村」
韓国の伝統家屋を堪能できる場所です。当時の生活の様子を家屋や家財道具を通じて垣間見ることができます。











観光の後はお買いものタイム。
今日も免税店と民芸品店へ連行されます。

今夜の夕食は、ガイドブックにもよく紹介されている「明洞餃子」で「ワンタン入りカルグクス(韓国風うどん)」と「チンマンドゥ(韓国式蒸し餃子)」。
今回のツアーの食事では一番美味しかったです♪



食後、明洞を少しだけ散策。もっと時間があれば楽しめそうなソウルの繁華街です。


これで今日の予定はすべて終了ですが、希望者だけ「あかすり・エステ・マッサージ」へGO!
話には聞いていたあかすり。しっかり体験してきました!
あかすりのおまけでチマチョゴリを着せていただきました。昔娘の晴れ姿を少しだけ^^;


超多忙な一日が終わり、ぐっすり休めました。

韓国ソウル-1日目

近所のお友達6人で行ってきました。
『びっくり仰天4日間のソウル』の旅。
わいわいがやがやにぎやかにソウルを満喫してきました。

台風と一緒に韓国へ!
釜山行の便は遅れていましたが、ソウル行はほぼ定刻に出発。あっという間に仁川空港に到着です。
暴風雨かもと心配したのに雨は止んで雲の切れ間も見られます。


バスでソウル市内に向かい車窓見学と免税店!最初のお買いものタイムです。
免税店を出て夕食。今夜は甘辛タレがクセになる名物「プルコギ焼肉」です。


おなか一杯になったところで、ソウルタワーに登って夜景見学です。
台風で見学中止の可能性もありましたが青空も少しのぞいてきました。
ソウルタワーはソウルのほぼ真ん中の南山という山の上にありソウル市内が360度見渡せます。





韓国1日目終了です。


  
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